Pharmaceutical Journal 

My Culture, My Self

 Science News (Oct.18)に同タイトルの記事が掲載されたとき、大学のメールボックスにはFYIとされて、コピーが3部入っていた。いずれも違う教授陣から。詳しくは読んでもらえればわかるが、要するに「心理面における自己形成はその国の文化、教育と大きく相関し、日本のそれは西洋のそれとは違う」という内容である。ではなぜ3部も届いたか?博士課程の学生は年1回、文献もしくは研究のCurrentを1時間ほどのセミナーの形で発表することを義務づけられている。前回の発表のあとに見せてもらった各教授陣の評価の中に「発表中に"Sorry"をむやみに使わないように努めること。発表のレベルは"Sorry"には相当しない。」とあった。今回届いた3部はいずれもそのコメントをくれた教授であった。そのときは英語の問題でそうなっちゃうんだろうな程度にしか思っていなかったが、この記事を読んで果たしてできるようになるだろうかと心配になってきた。
 我々日本人はその教育課程で「人並み」、つまりは「人の振り見て我が振り直せ」してきた。結果、できあがる日本人は「自己を高く持とうということよりも、社会の中でうまく属する」ことを優先させるようになる。自分の場合、アメリカ社会に属することを意識すると、どうしても"
Sorry"なのである。一方アメリカ人は「自己を高く持とう」とするあまり、時に自信過剰とか傲慢になってしまう。たとえそれが間違っていてもほとんどのケースで"Sorry"は出てこない。記事はそういった心理の違いが、文化、教育の産物であり、多分決して変えることができないと結論している。つまりは純粋な日本人である自分が、アメリカ人なみに思ったりしたりするのは無理ということである。別になりたいと思ったこともなかったのだが、一応アメリカで暮らそうと思っている日本人としては「社会の中でうまく属する」つもりで考えてしまうのである。
 記事を読んだあと、コピーをくれた一人の助教授に偶然廊下で会った。彼女も
Native Americanでありながら、Chineseの両親と学校の教育に似たようなギャップを感じたと言う。今でも彼女のとっさの心理はアメリカ人のそれとは違うらしい。結局のところ、自分が"Comfortable"に感じるところに落ち着くんだろうと思う。自分にとってやはりそれは日本人としての心理であり、したがって当分"Sorry"は消えないだろうと感じている。その"Sorry"を口に出さずに、心で思うだけですませる訓練をしなくては、、。

(October 24, 1997)
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