Pharmaceutical Journal 

Science vs. Ethics

 Ethics, つまり道徳原理、倫理のことである。どんなに科学的価値の高い研究であっても、医学薬学が患者を対象にする以上これを冒すことはできないのである。抗HIV治療薬AZTはその必要性と有効性で、かのFDAすら短期間臨床での申請、承認をした画期的な新薬であった。その薬自体は問題ないのだが、問題は価格である。異常と言うくらい高いのである。保険制度もあり、世界的に見て裕福な欧米を対象にしているうちはよかったが、HIV人口が最も多いとされるアフリカや東南アジアではその価格が国家の援助能力を超えるケースがでてきたのである。それでは薬を半分にした処方での有効性を試験しようということになって、プロトコールが作成された。そのプロトコールが倫理とぶつかったのである。試験の目的は通常=半分ではなく、半分>なしである。そこでプロトコールは半分量の投与群と薬の入っていない(通常プラセボと呼ばれる)いわば砂糖の固まりの投与群での比較となった。もちろん患者の治療と言う目的も達成せねばならず、群をひっくり返して同じ試験をもう一度行うクロスオーバー方式がとられた。この試験法自体は新薬開発の方法として、目新しいものではないが、問題となったのは「プラセボ群との比較が必要か?」ということである。反対派は通常量と半分量で試験をした方がよいと言い、賛成派はそれでは通常>半分となったときに判断ができないと反論する。学術的にはプラセボ派が論理的であろうが、治療的には一刻を争うHIVだけにプラセボ投与は避けたいところである。これに油をそそいだのが、試験が開発途上国で行われるという事実である。経緯が定かではないが、当初試験は米国患者を対象に行われるはずだった。しかし、人種差やHIVの程度を理由に薬を必要とする開発途上国で行われるようになったのである。
 一般的にプラセボ投与の目的は二つある。一つは「試験薬との違いを見るための指標」(試験内コントロール)、もう一つは「試験自体を他の試験と比較するためのいわばベースラインとしての指標」(試験間コントロール)である。今回の目的は後者の方である。もちろん、通常投与群を試験間コントロールとする方法も論議された。しかし過去の多くの例に見られるように、人種が違うと反応はまったくと言っていいほどアテにならないのも事実である。したがって、明確な答えを見つけるにはプラセボ投与が必要なのである。しかし、賛成派もこと治療にだけ着目したとき、自信を持ってプラセボが必要とは言えないらしい。さてこの問題、皆さんならどう考えますか?

(December 11, 1997)
Back to main page