Monologue on a Fine Day 

To be, not to be,,,, Part I

 実は、ここ数ヵ月考え続けてきたことがあった。自分としてはかなり重要な選択になると思い、敢えて他言はせずじっくり適性と自分の執着を考えてきたのである。『このまま研究者を続けるか?』。命題はこれである。何を今さら、と思われるだろうが、ある日『研究やめようかな?』と思ってしまったのだから仕方がない。22才から研究生活を始め10年。1か月実験をしなかったのは入社したときの研修以来である。その研修も5月には配属になっていたので、今回のように半年近くということは初めてということになる。とは言っても、全く違うことをしていた訳でもなく、教える授業はあったし、グラント(研究奨励金)の申請もあった。その過程で、ボスや共同研究者とディスカッションを繰り返していくのだが、そこで見つけたのは、どうやっても彼らの考えているレベルまで到達できないでもがいている自分だった。もちろん相手は教授連である。自分と比較して同じだったらこれまた困ることだが、それでもまざまざとレベルの差を見せつけられると結構応えるものである。かくして、本当にやっていきたいのかを考えることにした。もちろん、研究をやめたからと言ってすぐに他の何かで生きていけるほど世の中あまくはないことは承知している。結論に急ぐ前に、今ここにいる自分を振り返ってみた。
 ここにいる自分:今でこそ英語に困ることは少なくなったが、もともと学生時代から英語は嫌いな科目の一つであった。そんな自分が『渡米して学位をとりたい』と思ったのは、もちろんその必要性を感じたからである。ご存知の通り、科学の世界では英語が第一言語である。その英語を主体とした世界で、英語を第一言語とする研究者たちと対等に渡り歩いている日本人研究者は残念ながら少ない。結果、日本人は論文上で比較的いい研究はすると認識はあるものの、一科学者として認められるケースは少ないのである。事実、日本の学会でアメリカ人が招待されることは多いが、アメリカの学会で日本人が招待されることは稀である。ヨーロッパの研究者は招待されるのに、、。つまり欧米主体で動いている世界にとって外様はやっぱり外様なのである。では、それを覆えして認めさせるにはどうするか。外様でなければいいのである。つまりアメリカで育てられて一人前になって一線にでれば、たとえ実力が同じでも評価は違うのである。そうは考えていたものの、一度安定した生活を得てしまった自分としては決心はつき難い。そんな自分にある事件が起きた。1995年5月、学会発表(ポスター)のために渡米したときのことである。ポスターセッションの前に5分間のオーラル発表と2分間の質疑応答があることを見逃していたのだ。現地でOHPを作り、慌てて原稿を作って発表は終わらせるものの、質疑応答で相手の質問の英語がわからずに答えられなかったのである。答えた英語:Sorry. I can't understand what you mean. I'll answer you later。自分としてはこれほど大恥を書いたことは後にも先にもない(幸いなことにそのセッションの聴衆は10人程度だった)。ショックを受けつつも、学会が終了し、空港で飛行機を待っていた。そこで『Hiro! What a coincidence !』と声をかけたのはDr.Tだった。1950年代に世界ではじめての、今では世界の標準であるある種の吸入剤を製剤化した飛び切りの研究者である。年齢は60ぐらいの温和なおじいさんだが、実は往路の国内線で一緒になっていた。そこで飛行機を待つ間、質問に答えられなくてショックだったことを話した。すると彼は『ヒロ、人生はまだ長いし、君の研究生活は始まったばかりだよ。ここで失敗したと思うのだったら、次回そうならないようにすればいいだけさ。そのためにどうしたらいいか、ってことを考えるのが人生の楽しみ方だよ。僕だって日本語では質疑応答できないけど、ヒロはできるだろ!』と笑いながらウインクをしてみせた。こうして日本への飛行機を降りたとき、心は決まったのである。余談となるが、昨年の学会発表(これはシンポジストだったので発表25分、質疑応答10分だった)が無事に終わって一息したときに、真っ先にきてハグしてくれたのは、かのDr.Tだった。『私の大切な友達におめでとうを言いにきたんだ。あのときの失敗はとりかえしただろう?だから人生、生きてて嬉しいのさ。』。

(June 24, 1999)
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