Monologue on a Fine Day 

Reminiscence 1

 母親が送ってくれた荷物の中に見つけた小学校の同窓会便り。そこには45年目の記念行事に新装された校舎と現在の教職員の写真があった。自分の卒業が19年前だから、当時若い先生でもすでに40は過ぎているはずである。ざっと見渡すと、自分にとって思い出深い先生だけが残っていた。その数6人。現職員を数えると31人だから、ほとんど知らない先生となっている(当り前か!)。
 3,4年のときの担任だったO先生にとって自分らは初めての生徒だった。標準語と方言を使う、当時の我々にとって奇妙な先生だった。誰でもそうであろうが、3,4年のころはいわゆる第一反抗期である。新任の奇妙な先生という面が、我々のそれを助長した。それに対し、かのO先生は教室の後ろや廊下に立たせる、男子生徒にはびんたをくらわす、と当時の先生の中でも激しい教育をしてくれた。何かの折に母親に「よく父母会が何も言わなかったね!」と聞いたことがある。母親は「言わなかったんじゃなくて、誰も言えなかったんだよ。」と当時のことを教えてくれた。父母会は大体1学期に2回ほど開かれていた。最初、子供から様子を聞かされていた親たちは抗議するつもりで先生を待ち構えていたという。しかし、O先生が入ってきて、はじめに渡された資料を見て、親たちは何も言えなくなったという。その資料の1枚目には、彼が教えた内容、テストの日付と回数、毎回の平均点と生徒たちの分布が克明に記載されていたという。加えて母親が感心したのは、生徒たちの結果からO先生自身が自分の教え方に対する反省を記載しているところだった。そして2枚目以降は、各個人の問題点と解決方法がびっしりと書かれていたという。生徒一人一人にである。当時生徒は35名だったと記憶しているが、何せ小学校。O先生は少なくとも4科目は教えていたはずだ。つまり4x35=140のレポートを毎回の父母会に提出していたのである。極めつけは、毎回、クラス約半分とそれ以外の希望者に30分程度の個人面接を義務づけたのだ。これでは抗議のしようもない。そのうちに親たちはあることに気がついたという。ことに触れて、O先生は生徒が、好きであったり得意であったりすることを父母会で公表するのだという。「○○君は理科が本当に好きなんですよ。」そして、必ずその母親に向かって「褒めてあげてください、がんばったんだから。」と言うのだ。4年になるころ、自分たちの反抗期もO先生には通じないことがわかり、クラスはまとまったことを記憶している。そして今でもなお鮮明に覚えているシーンが自分にはある。4年の3学期も終わろうという頃、HRでO先生はなんと我々の前で謝ったのだ。「自分にとって最初の生徒だったのもあって、一生懸命やったつもりだけど、しばしば君たちには嫌な思いもさせたと思う。すべてが正しいなんて僕には思えない。だからその分、先生は謝ります。」
 19年振りに見るO先生は、当時若干薄かった頭が、影もなく、、で、確実に歳をとっていた。今はどんな教育をしているんだろうか!?まさか今は廊下だ、びんただなんてやっていないとは思うが、、。もし自分に子供がいたら、絶対に担任となって教育してもらいたいと、19年たってなお思える唯一の先生である。久しぶりに日本に帰ることを意識した。

(November 19, 1997)
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