Monologue on a Fine Day 

"How much am I ?"

 はたして日本で生きている限り、自分はいくらの価値があるかということを考えるであろうか。細々とはいえ給料をもらい、同時に大学院生として学生もしている。到底日本では成立しない方程式だが、ここアメリカでは半数の大学院でまかりとおる論理なのである。『学生=お金を払う』という方程式を持つ国で育った自分にとって、未だにこの感覚をアメリカナイズするのに苦労するときがある。結果、『学生なのだから仕方がない。お金をもらえるだけでも、。』などという感情が起きてしまうのである。しかしここアメリカでは、そんな感情を持とうものなら、いいように使われるだけである。日本からのポスドクの給料が低レベルに抑えられている近年の現状を聞くにつれ、その危惧をかくしきれないのは自分だけであろうか。一般的にうちの薬学部の場合、卒後インダストリーで$60,000、アカデミアでポスドクならば$30,000が相場となっている。金額に差こそあれ、今の給料からすれば格段のアップである。日本は?というと、それほど『PhDの価値』というものが金額に反映されない。結果、学生も社会もそれほどの高度な教育を要求しないのである(感覚的な把握であるが、日本の研究者の場合月に一万円札で年齢分もらっていれば満足しているのでないかと思う<除くマネージメント)。加えて、物価の日米差があり、年収$60,000は日本では1200万円程度の価値になるだろう。卒後を考えれば考えるほど、日本という選択肢は少なくなるのだ。
 以前企業にいたとき、PhDというだけの研究者を多くみてきた。企業的なセンスがまったくない『自分のサイエンスしか知らない』研究者。そういうのに限って、自分の処遇に関係する人間には弱く、自分のサイエンスも企業内の論理でしか語ろうとしない。『会社の中で自分しか、、』というよりどころも世界にでればひとたまりもないのだ。もちろん個人が卓越できる範囲には限界があるから、すべてを求めることはできまい。だからこそ、広い範囲に卓越できるProblem Solvingという能力がPhDには求められる。PhDが『Doctor of Philosophy』である由縁。そこにあると教えられた。その『Philosophyを語れるDoctor』の受け皿は日本には残念ながら少ない。自分の能力と価値を処遇という面で理解してくれる場所はないものだろうか?その場所を、そろそろ探さなくては、。気分的には、さらなるアメリカンドリームを追求したい、、というのが今の本音かな(^^)。。

(October 2, 1998)
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