Monologue on a Fine Day 

My Dream, but not Only Mine

 夢を語るとき、「実現できないから夢」を言う人と「実現できるかもしれないけれど今は夢」を言う人がいる。「日本人ではじめてのアメリカの大統領になること」が前者で、「オーロラをみること」などが後者である。1990年、大学院を卒業した自分の夢は「世界に通用する研究者になること」だった。そして就職。5年を経て退職。渡米。その夢に近づくために、7年を費やした。でもまだその足掛りすら見えない。しかしこの7年間、自分ほどラッキーな研究者はいないと自分では思っている。自慢ではなく、感謝である。そしてその夢に向かった7年間、多くの素晴らしき指導者と出会った。その中の一人に彼はいる。同じ研究をしていたわけでもなく、まして多くのことを教わったわけでもない。しかし自分のキーになる部分に必ずといっていいほど関わっているのである。就職のとき自分をとることを決めたのは彼である。留学の意思を持ったとき「会社からの派遣はない」と言ったのも彼である。退職を伝えたとき「誇りに思う」と言ったのも彼である。そして、送別会のとき「その肩に研究所全員の期待を忘れるな」と涙して言ったのも彼である。瞬間、瞬間に現われては、自分の方向の鍵をくれたのである。現実には両親をはじめ渡米をサポートしてくれた卒業大学の教授や受け入れてくれた今の教授に優るはずもないのだが、なぜかどうしてもはずせないのである。そして最後の面接のとき、彼が言ったのは「世界に通用する研究者になること、それが使命。」だった。彼は自分の夢を知る由もない。そして後に彼の夢でもあることを知った。
 そして今年、1998年は彼の定年退職の年である。彼の夢は「実現できなかった夢」だったのだろうか、「実現できた夢」だったのだろうか?多くの人から見れば後者であることは間違いない。しかしこればっかりは他人の評価ではないのである。人生の、研究者の先輩として、興味深いところである。送別の色紙に彼が書いた言葉「青春とは年ではなく、情熱の続編である。情熱とはどうしてもやりたいという意思ですよ!」は今、自分の夢の後押しの役をしている。そして彼の定年退職と同じ月、自分は在職時代の研究をここアメリカで発表する機会を得た。発表の最後の謝辞に彼の名前は入る。自分一人だけの夢でないと思う今日この頃。「実現できないから夢」だけは避けたい。年頭に新たに誓う「自分の夢」。

(January 1, 1998)
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